⑬リフレクソロジーのお仕事・歌の先生のこと

2001年、33歳の頃・・・

 

環境を変えてみようと思い、

母とスイスの旅へ行きました。

美しい風景は 黙ってわたしに

寄り添ってくれていました。

それでも 亡くなった主人の面影を

わたしは湖水に浮かべていました。

 

 

このころは・・・

県営住宅で 一人暮らしをしていました。

山がすぐ近くで 神戸の海が見えて

とても好きな場所でした。

 

リフレクソロジーのサロンに配属され、勤め出した頃でもあります。

スピリチュアルな同僚たちに 刺激をたくさんいただきました。

精神世界の本を ものすごい勢いで読んでいました。

(やっぱり 小説は読めません)

とても 楽しい時期でしたが、

エネルギーというものに敏感なのに

守るすべをまだ身につけていなくて、

いつも体調はよくありませんでした。

 

 

実は結婚前に、入っていた合唱団の方のご紹介で、

素晴らしい歌の先生との出会いがありました。

大学で高い地位におられる先生なのに、

いつも笑顔で、声を出してお笑いになる明るくて

誰にも平等に接して下さる方で、

人間的にも 技術的にも尊敬できた先生でした。

 

画期的な発声法、イタリア語やドイツ語の発音、

弱気になっていたわたしに 時間を惜しむことなく

辛抱強く お教えいただきました。

それも 低価格のレッスン代で・・・

 

主人が亡くなって 音楽嫌いになり、

一切やめてしまいましたが、

心の余裕が少し出てきて 音楽を聴けるようになりました。

歌うことも やってみようかと思うようになりました。

 

いえ・・・違います・・・

「やりなさい」という声が聞こえてくるんです。

 

先生と再会したときに、

わたしの主人が亡くなった時、

わざわざ 家までお越しいただいていたことを伺いました。

留守にしていて知らずにいました。

申し訳ない気持ちと感謝で いっぱいになりました。

 

ずいぶん前に 先生ご自身も

やっと結ばれた最愛のご主人を亡くされていました。

お互いに そのお話は一度もしたことがありませんが、

なんとなく わかった者同士だったのです。

 

でも 歌を再開したものの、

どうしても うまく外国語が歌えない。

やっぱり わたしには歌えないのか・・・

先生の ご期待に添えない・・・

また レッスンへの足が遠のいてしまいました。

 

何カ月かして・・・・

先生がお亡くなりになったと知った時、

病気がそんなにお悪かったなんて・・・

辛い身体を起こして

お教えくださっていらしたのに・・・

 

先生 ごめんなさい・・・!!

 

もう わたしは 音楽をする資格はない人間だと

自分を責めるようになりました。

 

それでも 歌いたいという気持ちが どこかにあったのでしょう・・・

46歳で また素晴らしい歌の先生に 出会うことができました。

声を出すことまでに 13年の永い年月が過ぎました。

 

お人の心をよく理解して下さる、

とても素晴らしい先生のご指導で

本当のわたしの声を ひきだしてくだっさことは、

わたしの内面をも かき混ぜられるようでした。

歌うことは 己の魂を感じること・・・

そう思いました。

 

わたしは「外国語」に対して

拒否反応を起こすようになっていました。

いぜんとして 言葉との戦いは続きます。

でも なにかが わかりかけた時期です。

 

愛する歌よ 愛する詩よ・・・

こんなにも貴方を欲しているのに

どうして わたしを嫌うの・・?

もう あきらめようか

そう思っていた時、

48歳の時、LDだとわかりました。

 

歌に 自分に ただ優しくいればいい

そう思うようになりました。

無理をしなくていい。

自分のために 歌えばそれでいい・・・

肩の荷が すっと落ちたように感じました。